
ESCOLA NECTAR
エスコーラ ネクターについて
母語で学びを
1990年の入国管理法の改正により、多くの日系ブラジル人が日本へと渡り、日本各地の工場で外国人労働者が製造業を支えるようになった日本。外国人労働者とその家族とともにたくさんの子どもたちがやってきたものの、ほとんどの子どもたちは日本語を一言も話せませんでした。その当時、日本の学校に適応できない子どもたちが通える学校はありませんでした。そこで、来日までブラジルで教員をしていたクレオニセ先生が自宅でポルトガル語を教えるようになったのがこの学校の始まりです。
創設者・校長
西クレオニセ
親子の絆である母語を大切にしたくて
日本に来日し、我が子が公立の小学校に通い始めると、だんだん私とコミュニケーションがとれる言語であるポルトガル語を忘れかけていることに危機感を覚えました。そこから、私たちのルーツであるポルトガル語を自宅で教え始め、気が付いたら近所から学びに来るようになったブラジル人の子どもたちでリビングがいっぱいになっていました。このポルトガル教室がたくさんの子どもたちの拠り所となっていくのをみて、学校の設立を決心しました。


1996 ‐
小さな教室から始まった学校
自分の子どもにポルトガル語を
教えていると近所のお母さんたちと話すと
その子どもたちも集まるようになりました。
次第に自宅のリビングには収まりきらない
人数の子どもたちが集まるようになり、
賑やかな学び場となる。
2001-
ブラジル政府認可校
としての歩み
日本の小中学校に通わず、
不登校・不就学となっていた子どもたちがポルトガル語教室を拠り所とするようになりました。
子どもたちの帰国や進学などに備え、
学校として認可を受ける必要性が高まり、
ブラジル本国教育省(MEC)に働きかけ、
在日ブラジル人学校認可校の
パイオニアとして歩み始める。


Now
母語に基づく多言語教育へと歩み始める
日本全国で日本語学習支援などが充実する中、それぞれの事情で不就学や不登校となった
子どもたちが未だ多くいます。
それぞれの子どもたちが理解できる
母語に基づいて学び、健やかに成長し、
日本語をしっかりと学べる
居場所づくりを心掛け、
「自分でいられる学び場」として
外国人児童の育成を目指し続けています。
自分のルーツと日本の文化を掛け合わせた
多様で豊かな次世代の子どもたちに合う
多様な教育が受けられる学び場
を開放していきます。


卒業生の今
Rafael Viana
私はソフトウェア開発者であり、インストラクターでもあります。
コード・クリサリスという多文化共生企業で働いており、日常的に英語と日本語を使っています。 私はブラジルと日本で育ったブラジル人です。 初めて日本に来たのは10歳の時でした。日本の小学校に入りました。ブラジルの教育から日本の教育への移行は、子供にとって非常に難しいものでした。 エスコーラ・ネクターに入学できたのはとても幸運でした。
12歳の時にブラジルに帰りましたが、ブラジルの学校のカリキュラムに問題なく移行することができました。 16歳の時、日本に戻って来ました。以前は校長先生の家で行われていた授業が、生徒数が増えて保見団地の商業ビル1フロアに移転していたのには驚きました。
私はネクターでブラジルの中等教育を修了しました。 エスコーラ・ネクターでの経験は、いくつかの理由からとても貴重なものでした。 教職員のケアと献身のおかげで、私は多文化環境で成功することができました。
彼らは、私を人間として形成してくれた家族です。